フェラーリのブログ

フェラーリに関わった顛末

「事故処理2」

事故で通れなくなった交差点から引き返す道すがら、色々なことを考えた。 

事故はなぜ起こるのか。

警察が示す原因は前方不注意だとか速度超過だとかにくくられるけれども、なぜ前方不注意になったのか、速度超過したのか、の方が問題なのだ。

ひとはさまざまな理由でくるまを運転する。

むかし営業車で走り回っていたころ、たまに暴走車を見かけた。どんな事情か知るよしもない。いずれにしても気が狂ったように走っていく。邪魔だ、どけ、とばかりに割り込んでくるクルマに腹を立てて見送ったとき、ふと考えた。子供が病院に運び込まれたとか、親が死にそうとか、いろんな事情があるんだろうな、と。きっと何かの事情でやむにやまれず、走っているんじゃないか、そう思った。そう思って怒りを収めた。

考えてみれば、自分だって仕事の為にすごい速度を出し、無理な車線変更や急加速、急減速をやっていた。あれだって端から見ればりっぱな暴走だ。やっている本人は止むに止まれぬ、暴走の引き換えに足る理由を抱えているのだ。

ひとはさまざまな理由でくるまを運転する。

緊急事態に陥ったら迷いなく暴走すべし。

電車も飛行機もわたしの事情で急いでくれない。周りの人にはまったく関わりない事情を抱えわたしは先を急がねばならない。タクシージャック、バスジャック、他人を巻き込むわけにはいかない。ならば自分のクルマで急ぐしかないではないか。

自分でクルマを運転し暴走の結果の責任はすべて自分で負う。刑事罰を受け高額の賠償を背負う。どんな誹りを受けたとて私は先を急がねばならないのだ。自らの意思のままになる移動手段としてクルマを自分で買い、保険も払い、違反切符や逮捕の覚悟をして走る。これでいざというとき暴走しなかったら、なんのためにクルマを買って乗るのだ。かつて営業車を運転していた時はそう思っていたのだ。

ふ〜ん、でもねぇ、と思考を切り替える。

つい2時間ほど前、今後導入する社有車を高速道路でレベル2の自動運転に相当する車種に切り替える話しをしたところだ。

危険検知、衝突回避、追従走行がかなり実用的になっている車種に社有車を切り替えて、運転業務中の安全と運転時間中の業務深掘りをはかった方が良いという話しをしていたのだ。

総務部の労務担当者は導入に前向きだ。おそらく数年先にはこれらの装備は付いていてあたりまえになっているだろう。多少予算はオーバーするけれども、導入するのを遅らせる理由はない。

自動運転がどれくらいの時期にどの程度まで進化するのか正確にはわからないが、自動運転に向かってクルマは変化していく。自動運転の営業車の中で遠隔地とミーティングしたり、オフィスワークしたりするのではないか。

かつて万年筆が趣味だった。様々な万年筆を集め、その書き心地の違いを楽しみ、ディテールを鑑賞した。万年筆はすでに実用から趣味・し好品になっている。キーボードとプリントアウトの方がよほど正確で効率的だ。万年筆の愛好家も仕事でそれを活用するシーンはほとんどない。万年筆の手書きという価値が認められる場合だけ使用する。毛筆の世界はすでに実用から離れて趣味と芸術の領域になった。クルマを自分で操作することがこれと同列にならないとは限らない。

自動運転を使い慣れたらほとんどの人はその機能をOFFにしないのではないか。先に挙げたような緊急の事情に陥ったとしても、自らクルマを操作することを嫌忌するのではないか。

「どんな事情があるにせよ、自分でクルマを運転するなんて。そんな危険なこと、誰が望むんだ」、そう言っている気がする。

クルマは大きな変革を間近に迎えようとしていると思う。

今年、リーマンショックから10年を迎える。思えばあっという間の10年だった。10年後の2028年にわたしは自分でクルマを運転しているのだろうか。