フェラーリのブログ

フェラーリに関わった顛末

「わたしのクルマ原体験 昭和のくるま」

わたしのクルマの原体験をすこし書こうと思う。

わたしが小学校2年か3年くらいの時、当時の少年漫画誌にクルマの運転の仕方がのっていた。

なぜ運転年齢に達しない子供向け漫画雑誌にくるまの運転方法が掲載されていたのか理由はわからない。

わたしはそのページを丸暗記するくらいなんども読み返した。

「発進するときはクラッチを踏み切ってギアを1速に入れ、アクセルをすこしふかしながら、ゆっくりとクラッチをはなす」

「スピードが上がったらクラッチを踏み、ギアを2速に入れて、またクラッチをはなす」

「曲がる時は方向指示器を点滅させる」

「交差点を曲がる時はクラッチを半分くらい踏んで曲がる」

とか、書いていたと思う。

18歳になって教習所に通いはじめたとき、

「あの漫画はずいぶん省略されてたんだなぁ」と思ったことをおぼえている。

わたしはその漫画雑誌をかたわらに置き、勉強机で目に見えないハンドルとクラッチとブレーキとアクセルを操作する練習をした。

当時、わたしの家にクルマはなかった。わたしの家だけでなく同級生のほとんどの家にクルマがなかった。

あったとしても商店や工場を営む家の事業用のクルマがほとんどで、自家用車を持っている家は2人くらいしかいなかったと思う。

 

それから数年して母が運転免許をとった。まだ女の人がクルマを運転するのは珍しかったと思う。

我が家に来た最初のくるまは商店を営んでいた親戚からただで譲り受けたカローラのライトバンだった(最近はライトバンという言い方はしなくなりましたね)。

もちろんエアコンなし。(当時はエアコンなしが当たり前だった。クラウンやセドリックは装備されていたかも知れない。冷房が欲しければ「クーラー」をディーラーで後付けするくらいだった)。

ラジオもなかったと思う。ご存知の方も多いと思うが、当時のクルマはマニュアルがふつうでパワステなしパワーウィンドウなしチョークレバーあり、だった。

パワステはないが止まったクルマのハンドルが重いのは当たり前、ハンドルはクルマが動き出してはじめて回せるもの、と認識されていたと思う。

そもそもむかしは、

「ハンドルは停車した状態で切ってはいけません。タイヤが痛みます」と言われていたと思う。

 

このカローラのライトバンはわたしが運転したはじめてのクルマになった。小学校5年だったと思う。

自宅近くの河原で母が助手席の座りわたしが運転した。河原までは母が運転してくれた。

2速までシフトアップして走った。大きな石ころがあちこちにころがる河原を5分くらい走り回った。

 

母と買い物に行くとわたしはクルマに残り、運転席に座り直してハンドルを回したりクラッチをきったりブレーキを踏んだりした。ブレーキペダルにはブレーキランプのリレースイッチが仕込んであり踏むと「カチカチ」と音がした。

母は買い物を終えてクルマに戻ろうとするとブレーキランプが点いたり消えたりしているのを見て、「この子はほんとにクルマが好きらしい」」と思ったそうだ。

母はわたしが幼い頃からクルマに異常なほど興味を持っているのを知っていた。そんなことから母は人目を忍んで河原で運転させてくれたのかも知れない。