「洗車のはなし クルマのデザイン、カメラのデザイン、腕時計のデザイン」
たまに洗車をするといろいろな発見がある。
クルマのデザインがあらためてわかる。
この前、自分のクルマを洗車していてテールランプに微妙な凹カーブがかかっているのに気がついた。
「おぉ…これは微妙な曲線がついておるな…」
ちょっとはなれて眺めてみる。で、また近づいて見る。
ナンバープレートに向かう凹みとテールランプの正面視のイメージを崩さないためにわからないくらいの逆ぞりの曲線を入れている。
買ってから2年以上たつのにはじめて気がついた。
考えてみれば買う時も買ってからもそれほど熱心にボディの造形を見ていなかった。
ショールームでちょっと見て、試乗して注文して以来、納車されてもじっくりとクルマを見たことがなかった。
いい加減なもんである。
それでいて他人には自分のクルマのデザインが良いだの悪いだのしたり顔で言っている。
カーデザイナーやプロダクトデザイナーの微に入り細に入る造形行為を一般のユーザーはほとんど見ていないのではないかと思う。
クルマ、腕時計、デジタルカメラ、スマートフォン(スマートフォンよりガラケーのほうがよほどデザインは凝っています)など、自分の身近にあるこれらの製品をためつすがめつ眺めるというのは実はあまりなかったりする。
しかし、よく見るとこれらの製品は細部まで実によくデザインされている。
デジタルカメラなんてほんとに緻密なデザインだ。それこそ8000円で安売りされているコンパクトデジカメでさえよく見れば細部までちゃんとデザインがある。
指がかりの凸を目立たないようにつけていたり、ハイライトが曲がらないようにRを強引に(でもわからないように)つぶしていたり、コストを落とすためにマークの印刷位置を調整していたりする。
デザイナーと生産部門の戦いの跡が見える。デザイナーが泣く泣くあきらめた跡も見える。
これらの苦労や工夫は充分、鑑賞に堪えるものだ。
ちなみに日本のデザイナーは細部のデザイン作業に手間をかける。まだ手を加えるのか?とあきれるくらい細部をじっくり仕上げる。著名デザイナーもインハウスデザイナーもこの点はかわらない。
一方で海外の著名デザイナーはデザイン意図がちゃんと表現されていれば、それ以外の部分はあっさり妥協する。
専門性の強いデザインというのがある。
先にあげたクルマ、腕時計、カメラはその代表的なデザインだ。
カメラにはカメラの、腕時計には腕時計のデザイン文法のようなものがあり、その文法にしたがってデザインしなければ製品としての使い勝手や審美眼に耐えられないのだ。
たとえば有名なプロダクトデザイナーは家電、照明、家具などはデザイン出来てもカメラのデザインは出来ないと思う。おなじようにクルマのデザインも出来ないし、腕時計も無理だろう。
いやデザインしようと思えばデザインできるが、それは目新しいだけで実際の使いやすいかたちになっていなかったり、その製品群が持つ審美眼から外れていたりする。
ずいぶん前の話しだが著名なデザインスタジオ(そのデザインスタジオは商品企画やリサーチで評価されているところだった)が、携帯電話(ガラケーです)のデザインをした。
デザインのコンセプトはまことに立派だったが、実際に出てきた製品は酷かった。
通常製品より間が抜けたデザインになっていた。コンセプトはうまかったが、実際の製品に落とし込む造形能力がなかったのだ。
しばらくしてから関係者は(当のデザインスタジオ以外)、
「あれは汚点でしたね」と振り返っていた。
また、ある有名なプロダクトデザイナーを起用したカメラメーカーのデザイン部は、
「使わせてもらったのは大まかなイメージだけです。あとはほとんどわたしたちがデザインをやり直しています」、という。
彼らに言わせれば、
「(その有名デザイナーは)カメラをわかっていないからしょうがない」、のだ。
「でも、『わかっていない人の発想』も取り入れてマンネリ化を防ぐ必要がある」、らしい。
デザインの世界はなかなか奥深い。
たまには自分が買ったクルマやカメラ、腕時計をじっくり眺めてデザイナーの仕事ぶりを鑑賞するのもわるくない。