フェラーリのブログ

フェラーリに関わった顛末

「クルマにひそむ狂気について 集団暴走」

クルマの運転には狂気がひそむ、というおはなしをしようと思う。ただしこれから書くことは今から7、8年前までの話しで最近のことではない。近頃仕事でクルマを走らせるという機会がめっきり少なくなったのだ。

かつて営業車で一年に数万キロを走る仕事をしていた。 次から次へと営業車で顧客をまわり商談し受注して納品する。客先で話して作業している時間より営業車を運転している時間の方が長い。一日のうち商談している時間は合計しても1時間半くらい。そのくせクルマで移動している時間は合計6時間、なんていうのが普通だった。客先にずっと留まっている、というのは仕事がトラブったときで良いことは一つもなく、次から次へとクルマで移動していくことこそ順調な仕事なのだ。

一日少なくとも4、5時間、長ければ8時間をクルマの中で過ごす。そうした生活のなかでクルマが人を狂気に駆り立てていくのを何度も見た。

よく使う高速道路や自動車専用道があった。平日の昼間そうした道を営業車で走る。輸送、荷役、営業、旅客、工事、建設、整備さまざまな業務のクルマが走っている。たんなるドライブで走っているクルマはほとんどない。

これらの仕事で走る車群はある種の調和がある。危険なほど飛ばすでもなく、さりとてけしてゆっくり走らず、というスピードで走る。もちろん制限速度はオーバーしているのだが、警察の取締りを勘案された超過速度になる。

片側2車線の高速道路だとこの一定速で流れる車群に、先を急ぐ事情を抱えた車両が追い抜きをかけてくる。 先を急ぐ車両にとってこの一定速で走る車群は多少、苛立たしい存在だが、前が空かないことにはらちが明かない。しばらく時間をかけながらこの集団を追い抜いていくことになる。

しかし、そのしばらくの時間すらかけられない程、性急な事情を抱えた車両も時として出現する。彼らは車間距離の短いところに車線変更して割り込み追い越してまた車線変更して割り込む。 周囲にとっては危なく迷惑な存在だが、彼のクルマは怒られようがうとまれようが、気にしていられない事情と感情を抱えているのだ。

危険であっても思い通りに前車を追い越していけるのならば良いが、場合によってはせっかく追い越した隣り車線のクルマにふたたび追い越されることもある。目的地に早く着きたいだけでとなりのクルマと順位を争っているわけではないが苛立ちはつのる。

クルマというのは不思議なもので何万台も同じクルマが生産されているのに、運転している人間ひとり一人の心根がクルマの外に表れてくる。日頃、運転を長くやっている者ほどそれを感受する。 先を急いでいるにも関わらず、そしてわざわざ危険な車線変更を繰り返しているにも関わらず、はかばかしくいかないイラ立ちといかりはクルマに表出し周囲のドライバーに伝わる。かくて周りのドライバー達にもそのイラ立ちといかりは感染しはじめ、神経の逆立った暴走車群が出来上がる。

実を言えば、わたしも止むに止まれぬ事情を抱えて、その暴走車群の発端になるドライバーになったことがある。冷静であれば客観的に観察できるものが、その止むに止まれぬ事情を抱えているとそんなこともすっかり忘れるのが私の愚かなところだ。

ある時、実験をした。怒れる暴走車群のきっかけになる走り方をしたのだ。時間にして1分とかからず暴走車群が出来上がった。

「思った通りだ」、

車間を詰め車線変更を繰り返しながら離れていく暴走車群を観察しながら、クルマはいとも簡単に人を狂気に走らすものだと思った。

いつだったか自分が属していた車群が暴走車群に変貌し、速度を上げて先行していった。わたしはついていかず見送ったが、その車群がほどなく多重事故を起こした。誘発の原因となったクルマが含まれていなかったようだ。

多くの場合、暴走は数キロ、十分程度で収束する。各々のドライバーが自分なりのスピードレンジを持っている。それを超えた速度で走ると疲労する。大抵のドライバーがある程度の時間と距離で疲れてやめてしまう。

クルマの運転はドライバー毎に感受性がことなる。クルマで走る時間と距離でそれは鍛えられる。ラッシュの電車に乗り馴れた人とそうでない人の疲労や所作に差が出るのと同じように。

かつて走っていると隣のドライバーの運転経験が垣間見えたのだが、最近はそのアンテナが鈍ったようだ。 先のスピードレンジもむかしより遅くなったと思う。110馬力程度の営業車で走っていた頃より衰えた自分が700馬力超のF12を走らせている。

 

 

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