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フェラーリのブログ

フェラーリに関わった顛末

「箱根ドライブ3」

入れ替えをひかえたクルマで最後の箱根を走っている、という3回目。

前後にクルマがまったく走っていない椿ラインを湯河原に下る。

椿ラインはヘアピンカーブが多く、舗装は荒れている箇所がおおい。 ロードノイズがひときわ高くなる。タイヤは4分山といったところですでにタイヤとしての性能は衰えている。

ただロードノイズとともにフェイシアがびびっているのはタイヤのせいばかりではなく車体のヤレも原因なのだ。この夏をすぎてからとくに目立つようになった。これからもすこしずつこうしたヤレはすすむのだろう。

人も歳をとって衰えるようにクルマも衰えていく。

クルマ雑誌やビデオで紹介される車両の多くは新車であってそのクルマの性能をあらわしている。しかし実際に購入するとその初期の性能から徐々に経年劣化を感じていく。3年もすればかなりの劣化がすすむ。

 

以前も書いたが営業車で日々、関東各地を(たまに静岡や福島も)まわる仕事をしていた。 新車の営業車を受け取ってから年数万キロを走り、その間のクルマの衰えを日々感じていく。たまに同型の他の営業車に乗ったりすると自分のクルマの変化がより鮮明になる。

「ずいぶんくたびれてきたな」、

というある種の蔑視と長時間を共にした愛着が入り交じる。

いつしかそのガタガタ、キシキシという衰えが目立ってきても他のクルマに乗り換えたくなくなる。

「このクルマのままでいいですよ」、

と新車のあてがいを拒絶したこともあったが、償却のサイクルがくれば会社はクルマを入れ替える。そのたびに、若干のさびしさを感じたり、新車の改良に感激したり、を繰り返してきた。

 

自分で買ったクルマでは8年間のったのがもっとも長かった。

いまも手放さなければよかったと後悔している。もうすでに20年も前に生産されたクルマだから誰かの手に渡ったとしても、おそらく廃車されている可能性が高い。

この世から跡形もなく消し去られたか、どこかの廃車置き場で雨水にさらされ油染みの泥の上に積み上げられているかと思うと、さびしい限りだ。

それを思うと今でも手放したのが間違いだったと思う。一台分よけいに車庫は必要だし、税金もかかるが、残しておけばよかった。

当時はそこまでの余裕はなかったが、貧乏サラリーマン時代に無理をして買ったあのクルマを最後まで残して(そうしたら車歴40年になるだろう)、免許を失効するのがわたしのクルマ人生にふさわしいのではないかと思う。

 

今日一日、箱根を走り回って、衰えていくこのクルマを納得づくでつき合っていくのもよいかもしれない、そう思いはじめた。

わたしだって同じように歳をとったではないか。10年前の運転の仕方の無謀さ、鋭敏さは無くなった。反射神経、判断速度は遅くなった。動体視力が衰えたのだろう。

このクルマと一緒に衰えていってもいいかもしれない。