フェラーリのブログ

フェラーリに関わった顛末

「カーオーディオ、むかしばなし その3」

音楽は聞いていたその時の光景や温度、匂いも合わさって記憶される。

金がなかった学生時代、図書館でクラッシックのレコードをよく借りて聞いた。

ガーシュインのラプソディーインブルー、パリのアメリカ人、は真夏のクーラーの無い部屋の窓を開け放って、面接用にスーツを買うために初めて買った男性ファッション誌の表紙写真と共にわたしの脳裏に焼き付いている。

いまでもガーシュインを聞くたびにあの雑誌の表紙と窓から流れ込んできた蒸し暑い空気を思い出す。

営業車のラジオで聞いた様々な事件や事故も、その時の運転席からの眺めや気温、天候とともに記憶されている。

 

ジャイアンツの槙原の完全試合(1994518日)を営業車の中で聞いていた。

わたしはプロ野球をあまり好きではなかったがあの夜は偶然、聞いていた。イニングを重ねるにしたがって、ノーヒットノーランだ、完全試合だと盛り上がっていく。七回、八回には大変な興奮状態になった。完全試合なぞ十何年に一度、いや自分が仕事をしている間にもう一度、完全試合のラジオ実況を聞くことはないかも知れない、と思いながら聞いていた。(いまだに槙原以降、プロ野球の完全試合は行われていない)

地下鉄サリン事件1995320日)は早出で都内を運転中に遭遇した。

青山、赤坂、霞ヶ関、日比谷と走っていくと救急車、パトカーが何台も行き交う。一台二台ではない。あちらこちらからサイレンの音が街中、ビルの間をうずまくようにこだましている。なにかと思ってラジオをつけたらガス漏れ事故だとアナウンスしていた。仕事が終わって営業車に戻ると救急車や消防車だけでなく自衛隊の車両まで走っている。ラジオをつけると、事故ではなく意図的に毒性のあるガスが地下鉄でまかれたらしい、と言っていた。

阪神淡路大震災(1995117日)は出勤前に朝飯を食べている時は関西方面で強い地震があったがまだ被害は確認できていない、とテレビのアナウンサーが言っていた。そのまま会社に出勤し、10時過ぎころ、営業車に乗ってラジオをつけると大変な地震災害になっているとわかった。

営業車に乗っている間にどんどん状況が変わっていく。それこそ一時間おきに千人単位で死傷者が多くなっていった。営業先に行っても、「うちの関西事業所と連絡がとれない」とか、「会社の関係者も死んでいる可能性がたかい」、などと言っている。ラジオをずっとつけっぱなしにして営業車を運転していた。日本がどうなってしまうのかと言い知れない不安がする。あれほどの不安感はかつて感じた事がなかった。(大袈裟な表現ではなく、あの日は本当にそう思ったのだ)。

長野オリンピックの男子スキー団体の金メダル(1998211日)も営業車のラジオで聞いていた。スポーツにあまり興味はなかったがあの時は運転中にガッツポーズをしてしまった。まわりを走っているクルマも皆、ラジオで中継を聞いているようだった。感激した同僚の営業がわざわざ携帯電話をかけてきた、「聞いてたか!金メダルとったなぁ」。彼も営業車のラジオでオリンピック中継を聞いていたのだ。

 

さまざまなラジオの記憶が営業車から眺めていた光景と重なる。

槙原の完全試合の時、信号で停まった前車のブレーキランプのまぶしさ。地下鉄サリン事件の時の顧客のビルの地下駐車場からまぶしい陽光のなかに登っていくスロープとサイレンの渦。

阪神淡路大震災のえも言われぬ不安とのんきなほどの青空と多摩川の枯れ草の土手のコントラスト。長野オリンピック男子スキージャンプの時の首都高速の渋滞と高架の揺れ。

F12でラジオを聞く事はほとんどないが、これからもしかしたらラジオとともに記憶されるF12のドライブがあるのかも知れない。

 

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