あらためて フェラーリF12の最後
すでに手放して久しいフェラーリF12だけれども、ちょっと振り返ってみる。
自分のまわりからF12の痕跡はすべてなくなった。遅ればせながら車庫も備品も整理した。こういうと何か寂寞とした感じがあるけれども、そんなことはなくむしろ憑き物が落ちたくらいにすっきりしている。
F12があった時は、まさにその面倒をみるというか、おもりをしている感じがした。
エンジンかけなきゃとか、動かさなきゃという意識が強かった。バッテリーが上がらないように、とただそのためだけに休日の数時間を割いてF12に乗ろうとする自分の小心者さを自虐した。(言い訳に聞こえるかもしれないがバッテリー上がりが嫌だったという訳ではなく、完調に保ちたいという気持ちからです。…う〜む、やっぱり言い訳っぽいな)。
もちろんその数時間の運転のなかでF12の良さというか価値がすこしでも味わえればよかったのだが、それはとても少ない、短いものでしかなかった。
F12に乗っても楽しくないと自覚してから、 F12をどう処遇しようか考えた。
かつて交流のあったクルマ好きの人は車検を外してあるクルマを車庫の奥にしまいこんでいた。スーパースポーツカー、スポーツカー、超高級大型セダン、SUV、4台のクルマに乗っていた。車両保険と税金とメンテナンス代だけで年間200万円はかかると言っていた。
もう一台、どうしても加えたい一台がある、ただこれ以上維持費をかけるわけにもいかない。そこで一台の車検をはずすことにしたらしい。
「いつか乗ろうと思ってさ」、
3、4年すれば、いま持っているうちの一台は売却する。その時復活させれば良い、ということらしい。3、4年なら復活は容易(部品やメンテナンスのこと)ということだった。
同じようにF12を車庫に保存することも考えた。
でもやめた。
どう考えても数年後のわたしは今よりもさらに反射神経や瞬間的な判断能力は衰えて、それをより強く自覚しているはずだ。
いまでさえ無味乾燥、殺伐たる700psのF12に深い愛着を感じていないのに、おとろえたわたしがF12のそれを好ましく思うことはほとんどない筈なのだ。
それに動かすあてのないクルマを保存ははたしてイイことなんだろうか。クルマは道具であって、使ってなんぼである。なめまわすつもりもないし、あがめるつもりもない。クルマは走らせてなんぼ、だ。
わたしの机にはなじみの万年筆が一本ある。かつては趣味でたくさんの万年筆を集めて、気分ごとに使い分けていた。でも、ペントレーにならべた何本もの万年筆を見ていて、ふとわずらわしくなった。こだわって集めた万年筆たちだけれども、結果的にどれも自分に合っていない。なじまない、少しズレた愛好品ではないかと気づいた。
これは浪費だ、と思った。生まなくてもよい者を生んだようなもの。作らなくてよいものを作ったのと同じ。
愛でてくれる人に渡した方が良い、そう思って。これはという一本を残して売却した。以来、その一本を取り出しては一文字一文字書いている。
たまにインクを変える。軸にのこったインクを何日かかけて染み出させから、新しいインクを入れる。インクを変えるとまた気分が違う。
クルマは走らせてなんぼ。動かすあてもなくしまい込むのは浪費なのだ。
そう、このF12を気に入って走らせてくれる人がいるはずなのだ。