フェラーリのブログ

フェラーリに関わった顛末

「クルマの広告の記憶」

今回はクルマの広告について書きます。

最近、どんなクルマのコマーシャルが流れているかよくわからないのだが、おおよそテレビCMと言うのは雰囲気先行でその製品の実を表すものはあまりないように思う。クルマが走って竜巻が起きたり稲光が光ったり、見ててシラケるのである(フェラーリのビデオも同じような映像をアップしているから、こういうのは万国共通なのかも知れない)。だからクルマに多少なりとも知識やこだわりがあると、そういうあざとい加工映像や車とまったく関係がないタレントが出てくるテレビCMはつまらないのだ。

かつてはそういうCMを見ていると、「このCM見た開発担当者は忸怩たる思いなんだろうな」、と思いを巡らせていたのだ。でも実際、開発した技術者と話しをしてみると、そうした思いはまったくないサラリーマンばっかりだった。常識のあるサラリーマンは多部署の仕事には口を出さないのである。「口を出さないから、(こっちにも)口を出さないでくれ」、と言うのは臆病で怠惰なサラリーマンの習性なのだ。

話を戻す。

その点、雑誌の広告というのはじっくりと見る(読む)ことができるし、広告主の訴求したいことを写真や字数を割くこともできる、という点でテレビCMよりクルマを知るには適していると思っていた。

記憶に残っている自動車の広告といえばカーグラフィック誌に出されていたマツダの広告。

わたしがカーグラフィックを買うようになったのは1980年か81年頃だったと思う。駅前の唯一の書店で平積みされたクルマ雑誌の中でゴテゴテしてない表紙と写真のクオリティが目を引いた。他の自動車雑誌の表紙はうるさいくらい表題が書き込まれていたからカーグラフィックは落ち着いた大人の自動車誌に見えた。しかし悲しいかな自分のこずかいでは毎月買えなかった。

さてそのマツダの広告。カーグラフィック誌に毎月掲載されていて何ページあたりに載っているかも大体決まっていた(もしかしたらカーグラフィック以外の自動車雑誌にも掲載されていたかもしれない。わたしは他の雑種を賈う余裕はなかった)。

下の写真の通り、見開き一ページ4段組みで紙面の下3割がホワイトとキャッチコピーになっている。字数も多くて20字×40行×8段で6400字。途中写真が入るから実際の文字数はそれより少ないのだが、それにしても読ませる字数なのだ(ちなみにこのブログは毎回、900〜1200字くらい)。

内容はマツダが雑紙読者(この時点で既にクルマ好きが明白)に語りかける態で書かれている。

写真の回は、ロータリーエンジンに搭載されたターボについて書いている。レシプロDOHC4バルブエンジンを引き合いに出してロータリーエンジンがいかにターボに適しているかをタービンブレードのテクニカルイラストをまじえて滔々と述べる。

今読み返すとかなり我田引水、強引な内容なのだが、自動車メーカーがこれほど自社のクルマとその技術について訴えるのはとても新鮮だった。この回に限らず、サスペンションの形式やらギアボックスやら色々とこだわりのメカニズムとかに触れる回があったように記憶している。

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このマツダの広告の数ページを隔ててトヨタがコロナクーペの広告を載せている。映画007のロジャームーアがピストル構えてポーズをとっている、「トヨタはずっとこんな感じやなぁ…」、と思ったものだ。(トヨタは保守的な会社というか臆病な会社で、新技術は先行する他社の成否を見てから動き出す。そして成功すると見るや模倣し低コストと強い販売網で売りまくる。技術オリエンテッドとは対局のような会社だった。まぁ今もそんな感じですな)。

トヨタについてはまた別の機会に書くつもり

と、言うことでマツダの広告は読み応えがあった。タレントを使って曖昧なイメージを訴えるより、クルマの中身、メカニズムの意味を訴えるのがいい。

メカニズムにイメージは宿らない。クルマから感じられる印象、イメージは全てメカニズムやマテリアルやプログラムに依る。イメージは数値に置き換えられて実現する。そこには曖昧なものは存在しない。

だからどういった設計意図があってそれを実現する為にどんな素材で、どんな機構で、どんな設定をしたのか、をちゃんと言い切る広告は潔い。我田引水でも自己賛美だったとしてもだ。