「わたしの外車体験」
かつて輸入車はほとんど左ハンドルだった。
英国車のジャガーでさえ左ハンドルだった。
左ハンドルだからこそ輸入車。そして、左ハンドル=輸入車=ステータス、の連想もあったのだ。
わたしが子供の頃、子供の頃という言い方は曖昧なので昭和50年前後以前という言い方にしよう。
その頃の輸入車は基本的に高級車のことを指していた。
輸入車の多くは高級車、メルセデスベンツやキャディラック、リンカーンといったクルマだった。
これらのクルマは日本車にはまったくないデザインだった。キャディラックといった米国車はその寸法からして別世界のクルマに思われた。
当時、街を走っていた日本車はみな小さかった。いや、小さいとはおもわなかった。その大きさがあたりまえだと思っていた。
そこへキャディラックやリンカーンといったクルマが走ってくると、その車体の大きさ、長さにみな驚いたものだ。
「人が寝られるくらい」のボンネットやトランクリッドだった。
色もキレイな紺色だった。当時、日本車では黒か白(現在のような白ではなくアイボリー)か水色っぽいネズミ色(オート三輪の色です)が多かった。
ツヤのある紺色とレザートップ(当時はレザートップっという言葉はもちろん知らなかった)は別世界のクルマだった。
ちなみに当時、日本車は日本車と呼ばす国産車といった。最近はめっきり聞かなくなった国産車という言葉は当時、普通のクルマを指す言葉だった。
わたしが子供のとき、駅前ちかくの医院の車庫にシルバーのメルセデスベンツ450SELが駐車されていた。(記憶をもとに調べたらSクラスW116だった)
そのベンツはつねに前進で駐車されていて、リア側しかみたことがなかった。わたしが転居するまで一度もフロント部分は見ることはなく終わってしまった。
医院の入り口、まさに患者が出入りするドアの前の駐車スペースに停められたメルセデスベンツはその医院の主人である医師のクルマだった。
医院はきれいなコンクリートづくりで玄関まわりや壁の一部にガラスブロックがはめ込まれていた。3階建ての医院兼住居だった。コンクリートづくりで屋根や軒(のき)がない。雨樋も見当たらない。それはわたしが住んでいる家、わたしだけじゃなく同級生のほとんどが住んでいる家と違っていた。
ふつうの家ではこんな建物はない。モルタル吹きのかべは高級なほうであり、トタン貼付けのかべがふつうだった。
医院は個人開業医であることは子供心にもわかった。近くの総合病院の大きさとはちがい、入院施設がなかったからだ。
医院の前を通る人は、ツヤのあるシルバーの塗装と磨き上げられたトランクのスリーポインテッドスターを見ていた。それはいつも変わらず何年も続いた。
今から40年もむかしのことだ。
数年前にその街を走ったが、医院は無くなり商業ビルに建て替えられていた。