「フェラーリ様からお手紙着いた」
家に帰るとフェラーリから封書が来ていた。メッセージが書いてある。
便せんにいわく、
“フェラーリは車以上の存在であり、すなわちそれは生きること、スタイル、そしてパフォーマンスが結集した1つの芸術作品です。フェラーリを体感していただく事はその「情熱」を世界中のフェラーリ・ファミリーと共有することにあります“
う〜む フェラーリってこういうことを言う会社なのか…。 正直言って、なにこれ? という気持ちだ。
フェラーリは自動車であって技術の塊。その技術の塊の結果として素晴らしい乗り物、だと思う。(まだ乗ってないけど…) でも、成り立ちそのものから「芸術品だ」、「芸術品を作りました」と言われると正直、ひいてしまう。
こんなメッセージを発して自動車メーカーが自社のキャラクターを演じる必要があるのか、と思う。
小説のあとがきに作家が、
「この小説は、あなたの人生を豊かにする為に書きました。あなたの感情を刺激し、深い思考の淵を漂わせ、そしてあなたの日々の生活を潤わせる為に〜」、
と書いてあったらシラけるだろう。作家にそこまで言われる筋合いはない、と言いたくなるのではないか。
「フェラーリはグッズやTシャツを売る会社になっちまった」、
と、トップギアのジェームス・メイは言った。
まさにこのメッセージはグッズやTシャツを売るためのアイデンティティではないか。
この数十年、ブランドビジネスは隆盛を極めた。高い価値、高い収益性を得る為に多くの知恵を絞ったビジネスだ。
時刻を知る為の時計なら3000円のクオーツ時計で充分だが、自動巻きの30万円、300万円の時計を売る、魅了させ、納得させ30万円、300万円を支払わせるビジネス。
その努力は至極真っ当だが、自動車メーカーも同じようにブランド商売を志向するのか。
ブランドビジネスの中には工場も技術ももたないブランド企業がある。マーケティングと宣伝とデザインと工場管理だけのブランドビジネスがある。
自動車は逃げられない技術の塊。どこかの工場を借りて作ったり、だれかに設計を任せたりしたら自動車メーカーとは言えない。
フェラーリは自社でレースをしている。 収益いかんで広告宣伝予算を上下させ、
「残念ながら撤退いたします」、
で、ハイおしまい自動車メーカーとはまったく違う。
フェラーリには広告代理店のコピーライターが書いたようなメッセージは必要ないと思う。